「古代日本|夷人」


古代日本には異民族のように扱われた先住民たちが居たと云われてます
毛人(蝦夷)
肥人(隼人)
阿麻弥人(奄美人)

これらは夷人雑類に分類されてます
時として大和朝廷に逆らったと云われ蝦夷・隼人・国栖・土蜘蛛と呼ばれてます

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「隼人(はやと)」
古代南九州の民で薩摩半島・大隅半島に住んでいたとされていて薩摩隼人・大隅隼人と分けて呼ばれることもあります
神話に出てくる日本武尊と戦った熊襲とは隼人と同一と云われていて蝦夷と違い古くから大和朝廷に服属していたと云われてます

隼人は天皇の守護人と云われ勇猛さと呪力をかわれて天皇の守護を担当していたと云われてます
天平奈良時代には宮門を警備する衛門府に隼人司が置かれていたと云われてます
隼人の吠声(はいせい)は犬のように吠えて警備を行ないその吠え声には呪力があったと云われてます

「隼人の名に負ふ夜声いちしろくわが名は告(の)りつつ妻と恃(たの)ませ」

隼人は天皇の行列の守護役で国の境や道路の曲がりなどで吠声を発し行列の先払いとして邪氣・邪霊を払ったと云われていて践祚大嘗祭の儀式において隼人の吠声が発せられていたとも云われてます
大和朝廷での元日の儀式・天皇即位の儀式・蕃客(外国使節)入朝などの儀式では隼人が横刀・盾・槍などを携帯して参列しこの儀式で用いた隼人盾は独特のもので上下の鋸歯文(連続三角文)と中央の赤の目立つ渦巻文が描かれた盾だと云われてます
和銅3年(710年)の朝賀の儀式に隼人と蝦夷が参列し左右の将軍・副将軍が隼人と蝦夷を率いて行進した云われていて平安時代の大嘗祭では隼人舞と呼ばれる隼人による歌舞が演じられていて近年に京田辺市では隼人舞を復活させ隼人舞は京田辺市の無形民族文化財になってます
7世紀には隼人が畿内・近江・紀伊などに移住させられたと云われてます

大和国宇智郡阿陀郷
山城国綴喜郡大住郷
山城国綴喜郡宇治田原郷
河内国若江郡萱振保
近江国栗太郡竜門
丹波国桑田郡佐伯郷
山城国綴喜郡大住郷

隼人舞を復活させた現在の京田辺市大住であり大住(おおすみ)の名は大隅(おおすみ)半島だと云われてます

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「国栖(くず)」
国栖とは土蜘蛛(つちくも)と呼ばれ穴居するがゆえに賤しき号を賜ったと云われてます
常陸国(ひたちのくに)風土記によれば国栖=土蜘蛛は八束脛(やつかはぎ)とも呼ばれ八束脛は脛の長い人の意味であり神武天皇に敵対した大和の長脛彦(ながすねひこ)だとも云われてます

国栖・土蜘蛛・八束脛・長脛彦も穴居の原始的生活をしていた先住民であったと云われてます
国栖・土蜘蛛の居た地域とは福島県・新潟県・近畿・九州に渡っていて最北は陸奥国の白河の東南に当たる福島県東白川郡棚倉町八槻でありこの辺りが蝦夷と国栖の境界線であると云われていて九州では肥前国・豊後国などに土蜘蛛が居たとされていて南九州の熊襲・隼人とは別種であると認識されていた云われてます

記紀の神武天皇記に国栖・土蜘蛛は異形の人として記されていて吉野国栖には尾が生えていて大和国磯城郡忍坂村の土蜘蛛にも尾が生えていたと記されてます
高尾張邑(葛城)の土蜘蛛は身短くして手足長し侏儒(ひきひと)と相類(に)たりと記されていて人とは思えない賤しい存在として記されてます
神武天皇記では尾が生えていたとされ卑賤視された吉野国栖は3~4世紀の応神天皇記では「その為人(ひととなり)甚だ淳朴(すなお)なりと記されてます

吉野国栖は大嘗会(だいじょうえ)など朝廷の主要な儀式では歌舞を奏するようになり隼人舞と同じように吉野国栖による国栖舞は儀式に欠かせない演目だった云われていて奈良県吉野郡吉野町国栖と云う地名が今でも残っているこの地の浄見原神社では国栖舞(国栖奏)が舞われ奈良県の指定無形文化財になってます

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「蝦夷(えみし)」
越後や東北地方(陸奥国)に住んでいた先住民であり平安時代まで大和朝廷に反抗していた人たちと云われてます
蝦夷は毛人(えみし)と書かれることもあり一騎当百の勇猛な人と認識されていて蝦夷や毛人の名前を持つ著名人も多くいます

蘇我蝦夷(蘇我毛人)
小野毛人(小野妹子の子)
鴨蝦夷
佐伯今毛人

大和朝廷は東北の蝦夷を征服しようと長年にわたって苦労し平安時代になって征夷大将軍の坂上田村麻呂や文屋綿麻呂らの活躍によって平定できるようになったと云われていて大和朝廷の支配に属するようになった蝦夷を俘囚(ふしゅう)と呼び俘囚を全国に強制移住させることも行われ俘囚たちは素直に定住しないため役人たちは苦労したと云われてます
九州に移住させられた俘囚について「恒に旧俗を存しいまだ野心を改めず狩猟を業となし養蚕を知らずしかしのみならず居住定まらず浮遊すること雲の如し」と記されてます
11世紀には俘囚長を名のる陸奥国の阿部氏と山北俘囚主を名のる出羽国の清原氏が覇権を争うようになり地方豪族同士の戦いとなり12世紀になり奥州の藤原氏による平泉文化の平和な時代へとなったと云われてます

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「粛慎(みしはせ)」
古代日本に居たとされる北方民族で漢民族にならい北方に居た蝦夷とは違う人たちを粛慎と呼び鬼魅(おに)とも云われてます
欽明天皇5年に佐渡に粛慎人が船で来たと記録されていて「鬼魅(おに)なりと言して敢て近づかず」と記されてます
斉明天皇5~6年に阿倍比羅夫による粛慎討伐が行われたと記されてます
持統天皇8年に粛慎人に官位を授与したと記されてます
持統天皇10年に蝦夷・粛慎に衣服・斧などを賜ったと記されてます

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「八瀬童子(やせどうじ)」
京都東北の比叡山の麓にある八瀬の地に住む住人で蝦夷・隼人のような夷人ではなく特異な伝承と風習を持つ人だと云われてます
八瀬童子は鬼の子孫と云う伝承を持ち結わずに垂らしたままの童子の髪型をしていて近代では天皇の輿を担う駕輿丁(かよちょう)として有名であり天皇や皇族の葬儀には必ず輿を担いでいたと云われてます
八瀬童子は鬼として有名な酒呑童子の子の鬼同丸が先祖だとされていて鬼同丸は延暦寺に仕えていましたが追放され八瀬に住んだと云われていて八瀬の近くに鬼ヶ洞と呼ばれる洞窟があり酒呑童子が比叡山を追われて大江山に入るまでこの洞窟に起臥していたという伝承があります
八瀬の住民は比叡山延暦寺に所属していて叡山御門跡が閻魔王宮から帰られる時に輿を舁いて来た鬼の子孫という伝承があり八瀬童子は叡山の行事には常に駕輿丁として出役して今でも門跡の御輿舁きを勤めていると云われてます

八瀬童子は後醍醐天皇が比叡山に逃れた時に貢献したとして建武3年の綸旨により年貢などの課役を免除されその後も後の柏原天皇・後陽成天皇からも綸旨をもらい江戸時代には明治天皇に至るまで15通の綸旨を歴代天皇から受けていると云われてます

八瀬童子は足利将軍や皇室の駕輿丁も勤めていて御所の警固も臨時に行ったことがあり近世では天皇の八幡行幸・鞍馬行幸・伊勢行幸にも駕輿を舁いたりもしていると云われてます
八瀬童子は総髪あるいは四方髪と呼ばれる吉原の禿のような髪型をしていたてオカッパのような髪型で老齢になっても童髪のままだったと云われていて八瀬童子は比叡山で日常的な雑役に服した童子の役を勤めていて寺内で雑役に従事する童形のしもべは堂童子と呼ばれていて八瀬童子は牛飼童の役も行ない牛飼童も歳を取っても垂髪のままの童形が普通だったと云われてます

渡辺綱鬼退治で有名な鬼たちは酒呑童子・茨木童子などは童子と名乗り八瀬童子が鬼の子孫であると云う伝説があり鬼の怪力や童形の呪術性は八瀬童子を神秘的で不思議な存在であったと伝えられてます
王政復古の明治では八瀬童子は天皇の駕輿丁を独占的に勤めるようになり明治天皇が初めて江戸に行幸した際に八瀬童子約100名が参加し英照皇太后・明治天皇・大正天皇・昭憲皇太后などの葬儀では棺を載せた輿の輿丁役を勤めたと云われていて戦後はその役目はなくなっと云われてます

貞明皇后の葬儀では八瀬童子に御用は無く昭和天皇の大葬では宮内庁の皇居警察官が輿丁役を勤め八瀬童子は6名のみが作業に参与し香淳皇后の大喪では八瀬童子4名のみが奉仕したと云われてます

八瀬童子とおなじように鬼の子孫であるという伝承を持つ人たちは奈良県山中に居て奈良県吉野郡下北山村前鬼の住民で役小角(役行者)に従った前鬼と後鬼の夫婦がこの地に住みその子の五鬼(五人の鬼)の末裔がこの地の人々であると云われていて下北山村前鬼の地は吉野の聖地への入り口にあたり日本の仏教の聖地である比叡山の麓にある八瀬と類似した位置関係に在ると云われてます

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