「私欲我欲から無心へ」


瞑想してまた元の現実に意識を戻してくると胸中さわやかで腹中もドッシリ落ち着いて丹田に氣が充足してることがわかります
初学のときは2~3時間以上の瞑想も15分程度でも充足してくるものです

特に意識や心が揺れているときや先々にかげりを感じさせるときなどに瞑想して私心を手放すことで心が澄んでくるものです
グラスの水に泥を入れてかき混ぜればグラスの向こうは濁って見えず私欲を手放し無心で放置していると汚泥はやがて沈降し水が澄んで先がよく見えてきます
心乱れれば先は見えず心静まれば先は見えてくるものです

瞑想状態とは私心を手放し無心となることであり初めのうちはなかなか出来にくく周りのノイズが氣になったり心に次々と風景が湧いて出てくることもあります
その場合は瞑想の中で自分を客観視したり浮遊する風景にとらわれないで私心を手放し無心に観察することから主観の思惑や欲念がなく虜にならないものです

その風景もささやきも周囲の騒音も空の状態になったときにはじめて宇宙にゆったり・ゆっくり・ゆらゆらと浮遊している言霊「ユ」の感覚になれるものです
宇宙は肉体自己よりもはるかに軽くて純粋無垢であり宇宙との共鳴エネルギーがいただけます
それが心の落ち着きであり充足であります

瞑想を徐々に解くと下腹部から背中にかけて柔らかな温もりと安定感とともに氣が充足されているのがわかります

地下鉄の車内や旅先での新幹線の中でも座っている肉体自己を向かい側の座席にいるもう一人の自分から自分を観察します
もう一人の自分は肉体自己をまじまじと見つめその服装や靴や腕組みしている様子まで仔細に観察します
そしてその自分ががこれから行く先のことを考えているなとか
車窓の風景と似た過去の旅行を想いだし始めているなとか
自分の心の内面までも観察します
このような内観法を実施していくと主観であるもう一人の自分が表に台頭してきます

宇宙と同化したり自分を見つめたりすると少しづつ肉体自己の内面が洗われてきて少々のことでも怒ったり悲しんだりしなくなってくるものです
やがて瞑想も無心に近い内なるもう一人の自己の立場から宇宙そのものにコンタクトして行くとやがて八つの光に包まれてきます
その光とは純正・信念・希望・愛・創造・勇氣・進化・調和の宇宙八玄津の光でありもう一人の自分に深く浸透してきます

しかし瞑想だけでは生きてはいけないものです
瞑想を解いた現実の中にこそもう一人の自分が発揮する領分があります

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現実を放棄すれば山寺などに出家するか修道院に入るしか解けないものです
極端な精神性主義だけの生きざまでは何のために生まれ出てきたこの世であるかもわかりません
物質主義の金権亡者であっては勿論ならずオカルト教団やカルト集団のようであってもなりません
自分自身の情感を棚上げしてひたすら天理や天意や天啓を求めるのもいかがなものでしょうか
仏壇に向かって念仏を唱えながら傍らの子供を叱りつけるのは心行の分離であります
精神性主義もいいですが恋人の愛念にもまるで鈍感であったり家族の情愛を無視してしまったのではそれこそ人道にも取るに足りません
片寄ってはバランスを失うものです
人には両手・両足・両目・両耳があるように神は偏らないカタチを人に刻み付けられているものです
教育が過度になれば洗脳になりかねず親切も過度になればおせっかいとなるものです
悪を憎み善に活路を求めることは悪い訳ではありませんが善と空の世界に執着してしまうのはそれもまた私欲や我欲と云わざるを得ないものです

善にもなく悪にもなく泰然自若してとらわれないことが大事です
人は集客・動員などにとらわれすぎると心に負担となっておのずと楽しめなくなるものです
本来の愛他の行為がいつしか負担になってしまっては何にもならず第三者への癒しの行為であってもそれがとらわれになれば私欲や我欲となります
善もとらわれれば私欲や我欲であり光のように無心であることが必要となります
光は本来みずから光っているのではなく暗い宇宙空間にあって惑星や物質や塵に当たってはじめてその存在が見えるものであり光とはただ相手を照らすための存在であります

自我の主張やその根っこに絡み付く執着こそがささやかな日常生活の中に潜む人生の最大の陥穽です
とらわれとは心が拘泥して離れないことで今に近い出来事に対する心の引っかかりです
心が囚人になることは檻の中に人と書くから閉じ込められて抜け出せない態様です
こだわりも長い時間がたった今でも心が離れないことでありずっと引きずっている心の様子を云います
とらわれもこだわりも心が囚人となったり長きにわたって引っかかったりすることでありどちらもまったく自由性が存在していないものです

こだわらない
とらわれない
かたよらない

これらを抜き差しならなくなったときに言霊を唱えるで忽然と光明がさし恩恵やギフトなどが目の前に顕れてくるものです

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昨日とは通り過ぎた今であり明るい日と書く明日もまた今の連続です
人生において中今をおいてほかにあらず過去にこだわり昨日にとらわれそして今もバランスを失って片寄っていては光明の輝きはやって来るはずもありません

過去にこだわる人の苦労を過ぎ越し苦労と云います
未来を恐れる人の心を取り越し苦労と云います
その両方を中今の一点に背負い込んでは何のための人生でしょうか

今を存分に味わい・心を躍動させ・うきうき・わくわくと生きることが人生の使命でもあります

こだわらない
とらわれない
かたよらない

これらがその1つの処方であり心が常に躍動している状態であり理想と頭で分かっていてもひとたび思いもよらぬ出来事が起これば心は揺れるものです
理想に燃えても各論にこだわれば衝突もし悩みもするものです
情宜にほだされ過ぎればとらわれてかえって不満が募るものです

こだわらない
とらわれない
かたよらない

これらの意味合いとは善悪のもう一つ向こうにある無心への旅道具であります
善も悪もその一面の姿を見せてるだけであり宇宙のなかの存在とはそれぞれの善悪一面をみせる十一面観音がその本性です
宇宙の中の存在の命あるもの全てに大生命意志の息吹が吹き込まれていてすべての宇宙存在に価値があります
悪も善への流れの一面であり善悪混沌としたどんな場合であれ中今は大生命意志から与えられた進化のための最良にして最大の場面です
身近な大地にしっかり立って天をうらまず人をとがめず日々好是と笑顔で生きるとは老子の心境でもあります

こだわらない
とらわれない
かたよらない

これらの意味合といはこちら側の善と悪のぶつかり合いを見れば分かりやすいものです
こちら側は比較論の世界でありあちら側は大宇宙の懐に抱かれたもと一つの世界です
比較の世界とは物と欲とを掛け合わせて物質界を発展させてきたものであり物質科学や物質経済でもつ物質至上文明になると善悪二分・量の大小・物事も要素分割で考えられます

科学は本来はトガ学と云い分離裁断することから科学は始まり分析とはわけて析(量)ると書き世の中は細分化と比較が進みました
小さな部品に傷があるとその系全体が悪者になり癌も発見されたらそこにはメスが入って切り捨てられます
教育界も知育・体育・徳育と分けられ知育が優れている児童だと頭がよいと云われ体育が優れていると少々頭がわるいと邪推されます
知・体・徳の元は霊止(ヒト)であって切り離せられないものであり光も闇も本来一元なのです
分離なく一切元ひとつと云う理解が霊止(ヒト)の心の基底であり体も心(意識)も霊性(魂)も一元であり切り離せられないものです

不動心とは体と心と霊性の合一でもあります
体を張る勇氣は信念がなければカラ元氣となります
信念とは心の内容であり信念があるから心の底から勇氣が出てくるものです
その信念も私欲や我欲の欲念であっては一元宇宙真理にはならずその霊性が純正すなわち無心であるかどうかが重要となります

こだわらない
とらわれない
かたよらない

今の現実を越えて彼岸の心境にたどり着けるのもまもなくです


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