「失われた|大交易時代と長寿寺」


古琉球史より
14世紀後半から16世紀半ばまでの150年間を「大交易時代」と云います
琉球の交易船の派遣数が最多となった暹羅(シャム)との交易は1425年にはじまり1570年に終わました
そのはじまりは尚巴志の三山(中山・山北・山南)統一直前で永楽帝による第6次鄭和遠征後に当たります
その終わりは海禁が1567年に緩和されて数年後にビルマ軍が侵入して暹羅(シャム)を属国とした翌年そしてポルトガル船が長崎に初めて来航した3年後に当たります
それに次ぐ満刺加(マラッカ)との交易は1463年に明が海外への積極性を失った中期にはじまりポルトガルがマラッカを占領した1511年に終わります
この満刺加(マラッカ)を代替するかのように仏太泥(パタニ)へは1490年から1543年にかけて派遣されてます
1510年代ポルトガルの満刺加(マラッカ)占領以後は暹羅(シャム)と仏太泥(パタニ)にほぼ限られる状況となり琉球は貢期を制限されたものの明への朝貢を続けるが東南アジアからの中継交易品の入手が次第に困難となってしまいました
16世紀に入ると琉球の海外貿易にはしだいに翳りが早えはじめます
それ以前の15紀後半からは朝鮮ルートが日本商人の手によってすでに奪われてしまい琉球は九州の商業勢力を介して朝鮮とつながるようになりました
1511年のポルトガルによる満刺加(マラッカ)征服は東南アジア貿易ルートに暗い影を投げかけ暹羅(シャム)との強い絆は依然として続いたものポスト満刺加(マラッカ)に対応して仏太泥(パタニ)やスンダカラバに出向くようにはなりましたが新しい貿易地との関係は長続きしませんでした
史録に登場する東南アジア派遣船は1570年のアユタヤ行きが最後となりました

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「長寿寺(ちょうじゅじ)」
かつては沖縄県那覇市松山2丁目に位置した「臨済宗寺院」です
山号「壺宝山」
本尊「薬師如来」
御伊勢の寺(ういしぬてぃら)と方称されました
琉球第一尚氏王統の王相「懐機(かいき)」が冊封使を迎えるための長虹堤の建設にあたって霊験があったとされたことから天照大神の勧請とともに建立されました

長寿寺の開山は「満叟和尚」であり日本(やまと)から渡来した禅僧と云う説があり天照大御神勧請もに起因すると云われてます
懐機は長寿寺建立の後に町の端の村の「天山」に私邸を造営して居住してこの天山は現那覇市首里池端町の天山とみられいてこの天山は尚巴志の陵墓があり第二尚氏王統時代には北谷御殿の墓所となった「天齎山」です
第一尚氏王統の5代にわたって国相であった懐機だがその没年はわかってません
尚金福王のあとに即位した尚泰久王(位1454~60)の時代の国相は名氏不伝とあり国相についた人物の名は不明でありますが懐機ではないことを示唆してます
懐機は尚金福王治世下から尚泰久王治世下へと移り変わる途中のいずれの時期かに没していると云われてます

尚泰久王が景泰5年(1454)2月に明に遣わした報によると
「長兄金福が没して次兄布里と兄の子志魯が争い府庫を焼き双方とも傷つきともに倒れました 賜っていた鍍金の銀印もまた毀壊してしまいました 国中の臣民が臣(尚泰久)を推して権(かり)に国事を摂らせました」
とあり尚金福王の薨去後に王位継承に関わる内紛があり王宮が焼失したばかりではなく王位をねらった双方ともが共倒れしたことが知られてます

懐機の位牌は円覚寺方丈の壇上に祀られており位牌には「当寺開基檀那 道球国公懐機也」とあったと云われてます
長寿寺やあるいは他の寺院から移されたものと云われてます

内紛から王位についた尚泰久王であるが琉球史上もっとも仏教をあつく信仰した王でした
とくに鋳造した梵鐘は23口にもおよんでます
そのうちの1口に長寿寺の鐘も含まれていて景泰7年(1456)9月23日に撰文された銘によると撰者は相国寺住持の渓隠安潜で庚寅(1410)生まれの尚泰久王が上は王位の長久なること祝(いの)り下は衆生の救済を願い新たに巨鐘を鋳造して長寿寺に寄進すると云う意味です
尚泰久王が鋳造した23口の鐘のうち17口に渓隠安潜が撰文していますが内容はこれと大同小異であり寺院名や住持のみが異なってます

長寿寺の場合は住持は「秀乙」とありますがこの秀乙を長寿寺初代住持の「満叟」の弟子とみる説があります
梵鐘が尚泰久王によって鋳造されたように仏や天照大御神への供物も月々王庫から出されまた神社や寺の修補が必要な時も公儀が普請したと云い住僧もまた国王の綸旨を受けて住持となったと云われてます

長寿寺は懐機が建立した私寺という扱いはとられず官寺扱いとなってます
長寿寺の建立は琉球において創建年代が確定できる寺院(伝承も含む)としては「極楽寺」「護国寺」「大安寺」についで古く建立自体が琉球王府による何らかの支援があったものと云われてます

景泰年間(1450~57)から康熙年間(1662~1722)までの200余年の間の住持の歴代は不明です
17世紀に「啓山長老」が住持となりましたが尚貞王(位1669~1709)の治世下の康熙8年(1669)に啓山長老の隠居所である池上院が御用地となったため長寿寺は啓山長老に永代賜わりました
以来客殿・庫理などを再興しました
啓山長老が示寂した後に啓山長老の一門の諸老宿の僧らが奏上して前長寿寺住持で中興をした「啓山和尚」の位牌を立てました

長寿寺は円覚寺の末寺に位置付けられてます
また神社は往古から今まで公儀が普請してきました
毎年正月の朔日(1日)・15日に社参の儀式がありました
古来正月1日と15日になるごとに国王は必ず進香を「長寿寺」「円覚寺」「崇元寺」「広厳寺」に行なってきましたが雍正7年(1729)にいたってこれを廃止しました

その後に乾隆26年(1761)に旧例に復しました
長寿寺は官寺として扱われずあくまで私寺とみなされてました
明治6年(1873)の大蔵省の調査でも禅宗寺院として長寿寺があげられていますが私寺としての扱いでした
その後明治時代のうちに廃寺となり現在では見る影もありません


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