「王統アマミキヨと久高島」


「久高島(くだかじま)」
沖縄本島東南端に位置する知念岬から東海の沖5.3km上にある周囲7.75kmの島人口は200人強の小さな島です
久高島は琉球の創世神「アマミキヨ」が天から降臨し国づくりを始めたといわれる神話の聖地でもあります
琉球神話によると「日の大神(天にある最高神・天帝)」が女神「アマミキヨ」に島づくりを命じたと云われてます
天地開闢以前の下界は大海原が拡がっているだけでしたが女神「アマミキヨ」は「日の大神」から土石草木を授かりまず沖縄本島をつくり9つの聖地と7つの森を築いたと云われてます
現在ではこの9つ聖地のうち7つが琉球開闢七御嶽(うたき)として語り継がれ琉球信仰においてもっとも神聖視されている場所でもあり久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり久高島からの霊力をもっとも集められる場所と考えられてました
久高島内には御嶽(うたき)のほかに拝み所(うがんしょ)・殿(とぅん)・井(かー)などの聖地があり中でも「クボー御嶽」は久高島第一の聖域であると同時に男子禁制地です

琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖域とされた南城市にある「斎場御嶽(せーふぁうたき)」があります
せーふぁとは最高位を示します

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多くの島をつくっていた女神「アマミキヨ」は天帝に人間の種子を乞いました
天帝はそれに応え人間の子供2人(兄妹)を大地に下ろしました
やがてその兄妹は3人の男と2人の女をもうけました

長男「天孫氏として沖縄の王」
次男「諸侯」
三男「農民」
長女「君々(高位の神)」
次女「祝女(ノロ)」
それぞれの先祖となりました

「天孫氏王統」
琉球の歴史書に登場する琉球最初の王統です
天帝が下界に下した神の子の子孫とされ25代1782年間統治したと云われてます
25代目のとき「利勇」と云う家臣に滅ぼされたと云われてます

「舜天(しゅんてん)王統」
天孫氏を滅ぼした利勇を舜天が討伐して1187年に舜天が国王に即位したことからはじまり浦添按司「舜天」が建てた王統であり琉球二番目の王統と云われてます
1229年に舜天王統の最後の王「義本(ぎほん)」が「英祖(えいそ)」に譲位したと云われてます

「義本王」
琉球国王代記のうち初代「舜天王(しゅんてんおう)」統の三代目の国王であり八丈島から琉球に渡った源為朝の曾孫にあたります

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「舜馬順煕王の世子」
姓は源です
開嬉(かいき)二年(1206年)丙寅に降誕しました
母と妃と世子は不伝です
淳祐九年(1249年)己酉に即位しました
即位の翌年に国内は大飢鐘でした
その次の年に感染症によって人民の半ばが死にました
君民は大いに嘆き義本王は群臣を招集して
「上なる者は源である 下なる者は流れである 源が清ければ 流れも清いのは自然の理なのだ 今の流行病は これこそ予の不徳の致すところなのである 国家を有徳のものに譲りたいのだが 群臣の中で誰を国王にすればよかろうか」
と申された
群臣はこぞって恵祖世主(えぞのゆぬぬし)の嫡子の英祖(えいそ)をあげました
王は大いに喜んで英祖を召して試みに国政を代行させました
賢才を挙用し不肖を退け天の義に従って地の財を節しました
これによって景星と卿雲が顕れ病気は治まりました
その後は英祖が政治をして七年間は国内は大いに治まりました
義本王は在位十一年の年五十四歳にして英祖王に譲位しました
薨も寿も不伝です
舜天王統三代王として即位した義本王でしたが長引く飢饉と疫病で人民は半分が命を失いました
王はその事を自らの不徳に因るものとして退位の道を選びました
最後に薨も寿も不伝とあるように退位後の王の足どりは定かではありません
また義本王の墓と称されるものも沖縄本島内に複数箇所伝えられてます
義本王の退位後の足跡を明かしたのは琉球神開の始祖である金城義明師でした
師は夢枕に立たれた義本王自身の声から退位後単身で琉球全土を歩きすべての間切(集落)ごとに御願所(ウガンジョ)を立て人々の心に琉球御嶽信仰の礎の火を一つ一つ灯して行かれた事を教えらました
そしてこの御嶽信仰の道を守り伝え広めて行くようにと義本王から金城義明師に宣託が降りました

「英祖(えいそ)王統」
琉球で5代90年続いた王統です

初代:英祖王(1259年~1299年)
2代:大成王(英祖王:長男1299年~1308年)
3代:英慈王(大成王:次男1308年~1313年)
4代:玉城王(英慈王:三男1313年~1336年)
5代:西威王(玉城王:長男1336年~1349年)

「おもろさうし」によるとその最大支配領域は浦添を中心に中南部の大半と本部半島であったと云われてます
中期北山の初代国王となる湧川は英祖の次男であり南山の初代国王「承察度(しょうさっと・うふさと)」は英祖の五男の大里按司の孫であると云われていて後の三山時代の基礎となった王統とも云われてます

「承察度(しょうさっと・うふさと)」
南山では汪英紫(おうえいじ)の勢力が承察度を圧倒してついに承察度は汪英紫の迫害に抗しきれず朝鮮に亡命すると云う事件がありました

<承察度>
1394年に朝鮮に亡命して4年後には温沙道(うふさと)と号して朝鮮皇帝と謁見して皇帝から手厚い優遇を受けていたと云われてます

<中山王察度>
倭寇に襲撃された朝鮮人を救助して朝鮮国に送還した際に承察度の帰国を促したが朝鮮国では承察度の帰国を断ったと云われてます

<承察度>
南山の覇権争いで叔父「汪英紫」に迫害されて朝鮮国へ亡命したことは琉球国の有力按司が国外に亡命したのは承察度が初めてです
汪英紫の死後に承察度は帰国したと云われてます


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