「蝦夷人」


記紀に登場する「蝦夷人」と日本の原住民である「アイヌ人」は別の民族です
蝦夷人とアイヌ人とはDNAが異なります

東北や北陸地方の昔話には
「遥か昔 その地方には元々縄文人が住んでいたが 気候変動などから生じた食糧難から 多くの縄文人は西日本へと移住して行った」
「しかし その地に残った者も多くいたので 日本は東と西に別れて文明が発達した」
「その数千年後 東北や北陸地方に大陸から流れ着いた渡来人の侵略があり そこに住んでいた縄文人は 一部は北の辺境の地(北海道や北方領土など)へと逃げ 一部はその地方にある山奥へ逃げ(山人) 一部は西日本へと逃げたりと散開したのだが その西日本に逃げた者が 西日本に居た当時の統治者(天皇家の祖)に『助けて欲しい』と依頼し 天皇家率いる皇軍一行が蝦夷に向かって出兵した」
と云う内容がありますが記紀には歪曲されて記されてます

出兵した一行が無事に蝦夷人を掌握し西日本に逃げた縄文人達が戻って来てまた穏やかに暮らせるようになりました

天皇家が蝦夷人を掌握した事を知らない集団(北海道や北方に逃げた人々や山人達)は逃げた先で独自の文明を発展させたりまた元々その地に住んでいた(移住せずに残っていた)民族と合流して共に文明を発展させたと云われてます
これがアイヌ人と呼ばれる方々のルーツです

その後に別の渡来人が大陸から流れ着きその者達がやがて日本を統治し始め後に縄文人(アイヌ人達)を迫害した云われてます
その時の天皇家もその者達に政権を奪われてしまい長い年月を掛けて最後は確りと取り戻しましたと云われてます
これらが古文書と今までに発見された縄文時代の遺跡から分析されたデータと各地方に残る昔話などと照らし合わせた結果から検証された内容です
東日本大震災で被災された方々の多くは記紀に登場する蝦夷人では無く元来古代から日本にずっと住んでおられた原住民の子孫の方々です

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「蝦夷人」のルーツとは

皇軍が蝦夷人を掌握した事により東北地方に元々住んで居た縄文人(アイヌ人)が戻って来てまた文明が栄えました
天皇家が掌握した蝦夷人がその後どうなったのかは定かでありません

「ヲシテ文献」から
皇軍が掌握した直後の展開について
津軽蝦夷(えみし)は島津道彦に与えて七十県から初穂(はつほ:年貢)を捧げさせました
この時から島津氏が東北を統治するようになった云われてます

「掌握された側の蝦夷人」のその後は
国造(くにつこ)の五人が神の道を学びたいと強いて願い出るので召し連れてニハリの宮へ向かいました
後に5人はトリコ(捕虜)と云う記述になっており宇治で釈放と書かれており「大鹿島命(初代伊勢神宮)」の添人となるますが勝手な振る舞いをするので5人を播磨・安芸・阿波・伊予・讃岐と別々に住まわせることになりました

景行天皇はこの5人の蝦夷人は人としての心を持ち合わせていないのでこのまま置いておく訳にはいかないので距離をおいて分けて置かれました
播磨・安芸・阿波・伊予・讃岐に一人づつばらばらに配置しその後に「佐伯」と云う名前となりました
東北地方に居た蝦夷人はその後播磨・安芸・阿波・伊予・讃岐の各地方にバラバラに移住させてその地で「佐伯」という豪族になったと云われてます
この5人には各々1人につき数十名~数百名の一族やら家来の者達を共に引き連れて移住してます

佐伯氏達がその後それぞれの移住先の地で何をやったかにつきましてはその地方にある「風土誌」をご参考ください
佐伯氏の一族の一人に後の空海がいますがこの佐伯一族が何故元々中国語が達者だったのかなどの理由と照らし合わせてみましてもその当時に東北地方に居た蝦夷人は中国大陸から来た渡来人だったと云われてます

そしてインドとチベットの国境沿いに棲息する「ナガ族」の戦闘部族集団とまったく同じような風習を持ち合わせていたと云うのが昔話からも伺えます
そして「ナガランド」の部族が播磨・安芸・阿波・伊予・讃岐などの地方に渡来したと云われてます
更に香川県にはインド語の「金毘羅」鎮座してます


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