「人(霊止)還りの道」615編


霊主体従とは人間の内分が大神に向かつて開けただ大神を愛し大神を理解し善徳を積み真の智慧を輝かし信の真徳にをり外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである
かくのごとき人間はいはゆる地上の天人にして生きながら高天原に籍をおいてゐる人(霊止)でこの精霊を称して本守護神といふのである
至粋・至純・至美・至愛・至真の徳にをる人(霊止)でなくてはこの境遇にをることは出来ぬものである

体主霊従とは人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は一方に高天原を開き一方に根底の国(地獄界)を開いてゐる
ゆゑに人間はどうしても善悪混交美醜たがひに交はつて世の中の神業に奉仕せなくてはならない
しかしこれは普通一般の善にも非ず悪にも非ざる人間(ジンカン)のことである

人間は肉体を基礎としまた終局点とするがゆゑに外的方面より見て体主霊従といふのである
しかしながらこれを主観的にいへば霊的五分・体的五分すなはち霊五体五たるべきものである
もし霊を軽んじ体を重んずるに至らばここに体五霊五となるのである
同じ体五分・霊五分といへどもその所主の愛が外的なると体五霊五となり内的になると霊五体五となるのである
ゆゑに霊五体五の人(霊止)は高天原に向かつて内分が開け体五霊五の人間(ジンカン)は根底の国(地獄界)に向かつてその内分が開けてゐるものである

一般に体主霊従といへば霊学の説明上は悪となつてゐるがしかし体主霊従とは生きながら中有界(精霊界)に迷つてゐる人間(ジンカン)の境遇をいふのである
人間は最善を尽しただ一つの悪をなさなくてもその心性情動の如何によりてあるひは善となりあるひは悪となるものである
ゆゑに人間はどうしても霊五体五より下ることは出来ない
これを下ればたちまち根底の国(地獄界)に墜ちねばならぬのである

なにほど善を尽したと思つてゐてもその愛が神的なると自然的なるとによつて高天原と根底の国(地獄界)が分るるのであるから体主霊従的人間が現世において一つでも悪事をなしたならばどうしてもこれは体五霊五どころか体六霊四・体七霊三となりてたちまち地獄道へ落ちねばならぬのである

・・・「人(霊止)還りの道」616編へつづく


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