「人(霊止)還りの道」483編


現代人は霊界一切の事物と人間一切の事物との間に一種の相応あることを知らず
また相応の何たるかを知るものがない

かかる無智の原因には種々あれどもその重なるものは「我」と「世間」とに執着して自ら霊界ことに高天原(天界/天国)より遠ざかれるに由るものである
何事をも差しおきて我と世間とを愛するものはただ外的感覚を喜ばし自己の所欲を遂げしむるところの世間的事物にのみ留意して曽てその外を顧みずすなはち内的感覚を楽しまし心霊を喜ばしむるところの霊的事物に至つては彼らの関心せざるところである
彼らがこれを斥くる口実に曰く「霊的事物はあまり高きに過ぎて思想の対境となる能はず」云々

されど古の人(霊止)なる神司やその信者たりしものはこれに反して相応に関する知識をもつて一切知識中の最も重要なるものとなしこれに由りて智慧と証覚を得たものである
ゆゑに古の神司やその信者たりしものはいづれも高天原との交通の途を開きて相応の理を知得し高天原の天人の知識を得たものである
すなはち天的人間であつた太古の人民は相応の理に基いて思索することなほ天人のごとくであつたのである

これゆゑに古の人(霊止)は天人と相語るを得たり
またしばしば主神をも相見るを得てその教を直接に受けたものも沢山にある
古の神司やその信者たりしものは主の神の直接の教を受けてその心魂を研きこれを天下に宣り伝へしたる次第はここまでの「人(霊止)還りの道」を見るも明白である

しかし現代の神司に至つてはこの知識まつたく絶滅し相応の理の何たるかを知るものは宗教や思想の各団体を通じて一人も無いといつてもいいくらゐである
相応の何たるかを知らずしては霊界については明白なる知識を有するを得ない
かく霊界の事物に無智なる人間(ジンカン)はまた霊界より自然界にする内流の何物たるを知ることは出来ない
また霊的事物の自然的事物に対する関係をすら知ることが出来ない
また霊魂と称する人間の心霊がその身体に及ぼすとろこの活動やその死後における人間の情態に関して毫も明白なる思想を有することは能はず
故にいま何をか相応といひ如何なるものを相応と為すかを説く必要があると思ふ

・・・「人(霊止)還りの道」484編へつづく


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