「八咫烏(ヤタガラス)と三足烏と三王朝」


百済が高句麗から分離して建国されたのは371年ごろであり391年には倭国(わこく)は渡海して百済と一緒に高句麗を攻めました

「好太王碑文」
倭 辛卵年を以って来たりて海を渡り百殘・新羅を破り以って臣民となす

407年に高句麗-第19代好太王(こうたいおう)に大打撃を受け敗走しました
その後は遠征は途絶えていましたが623年に蘇我馬子が加羅国(任那)を百済に服属させるために新羅戦に出兵しましたが百済国が唐羅連合軍に661年に滅ぼされました
唐は熊津都督府(ウンジントドップ)に兵一万を残して武王(ウイジャワン)と王族ほか1万2千人の捕虜を連れて撤収しました
日本にいた扶余豊(ふよほうしょう)を戻し福信(ポクシン)将軍ともに復興軍を組織して反撃につきました
百済復興のために日本軍が663年8月28日に白村江(はくすきのえ)で交戦して陸軍2万7千・日本水軍1万と云う大軍勢を派遣しました
倭済軍(日本軍と百済軍)は一体で唐・新羅軍には倭軍としか映らなかったと云われてます
白村江(はくすきのえ)で2日間の激戦のすえ唐羅軍に敗退し日本軍船400隻が炎上して燃え上がる炎で海が真っ赤に染まったと云われてます
周留城で日本の援軍を待っていた豊王子は高句麗に逃れました
大和朝廷は7世紀半ばまで一貫して百済に援軍を送っていましたがこの戦で唐の軍事力の強さを目の当たりにして唐の冊封(さくほう)を受け入れました
それにより博多都督府が一時置かれました
大和朝廷は唐の冊封(従属国)を離脱するために国家意識を高めて「化外慕礼(けがいぼれい)の国(中国の支配圏の外で慕って朝貢する国)」になろうと努めました
唐の則天武后によりそれが認められました

百済滅亡後
高句麗は南の防御に備える間もなく668年高句麗も唐・新羅に滅ぼされました
唐は平壌城(ピョンヤンソン)に安東都護府を設置して丸都督府の42州と100の県に分けて統治しました
約3万人を唐に奴隷として抑留して北方に逃げた民は流民となりましたが北方での流民は大祚榮(テ・ジョヨン)に集合して698年に「渤海国」を建国しました
176城・69万戸あった高句麗は滅亡しこのとき日本に逃れてきた(666年10月)のが「若光王(じゃっこうおう)」で武蔵国(埼玉県日高市)に居住を許されました
現在の「高麗神社」で祀られてます
高句麗・百済を唐に支配されて新羅は売国奴の汚名を晴らすべく670年に新羅は唐に反旗をあげました
679年唐「イ・グネン」は20万の兵を京畿道の買肖城(メチョソン)を襲うも大敗しました
羅唐戦争は新羅が元高句麗の南半分から唐を駆逐してようやく三韓統一が実現し統一新羅となりました

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「高麗神社 (高句麗神社)」
<御祭神|三神>
高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

「続日本紀」
駿河・甲斐・相模・上総・下総・下野の七国の高麗人1799人を武蔵国に移し高麗郡を設置す

大宝3年(703年)若光王は「ここはまるで祖国のようだ」と日高の風光をたいへん氣に入り礼をもって国を与えられた若光王は一族郎党をこの地に集め窯陶や養蚕で繁栄させました
一族は14世紀まで一族以外の者と結婚をしなかったと伝われてます

例大祭のはげしい獅子舞は1300年前の高句麗のおもかげを今に伝えてます
猿田彦大神は天狗面で現れ先頭を歩き宮子はその後を着いて歩き裏山に登ります
先頭を歩くのはニニギノミコトの先導役を務めたという故事に基づくもので猿田彦大神は神輿の先頭を歩く天狗として全国の神事に多く見られます

猿田彦大神が高句麗の系譜にある社の際神となっていることはとても重要な点でありこの社が純粋に高句麗の王の末裔が渡来し日高の地に落ち着いた証が十分でありこの社で猿田彦大神の巡行祭が行われているということはサルタヒコが高句麗の初代王に比定できると云われます

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サルタヒコは高句麗渡来の高霊は「朱蒙(チュモン)」
高麗神社の御祭神にサルタヒコと武内宿禰であることは高句麗系渡来人であることを意味してます

八咫烏(ヤタガラス)は3本足のカラスであり日本書紀の神武東征神話に出てくる熊野越えで彦火火出見の夢の中にアマテラスが現われて「頭八咫烏を遣わすから郷導者としたまえ」と云われました

「八咫烏=三足烏」
日本では千年以上前から和歌山県の熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)をはじめ全国2000余の熊野神社の共通の紋章です
奈良・明日香村キトラ古墳(8世紀初頭)の天井壁画の太陽図にも三足烏が書かれてます

三足烏は高句麗建国のシンボルであり三足烏と云えば高句麗の始祖「朱蒙(チュモン)」でありチュモンが率いた軍旗でもありました
これは熊野系が高句麗の門下にあったと云われてます

三足烏の形象とは古朝鮮以来のシンボルであり漢民族は朝鮮族を東夷族と呼んでいましたが三足烏の形象は東夷族のものであり高句麗は中国中原にあって朝鮮族がもともと居住していたと云われてます

三足烏(삼족오 Samjokgo サムジョゴ)は高句麗の建国神話などに見られる文様です

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熊野古道・熊野本宮大社の神の使者「八咫烏(やたがらす)」
高句麗のシンボル三足烏は日本では八咫烏(やたがらす)と称されていると云われてます

(1)奈良県橿原市五條野町に八咫鳥を祀った八咫鳥神社があります
(2)奈良県明日香村のキトラ古墳で石室の天井にある星宿図(天文図)の日輪の中に三本足のカラス三足鳥とみられる絵があります
(3)八咫烏は加茂建角身が化身した姿だと云われていて建角身は賀茂御祖神社=下鴨神社(京都)の祭神であり賀茂別雷神:賀茂神社こと賀茂別雷神社に祀られている神であります
(4)奈良県御所市の高鴨神社では御祭神の味耜高彦根神と八咫烏を同一だと云われてます
(5)建角身命を祀る京都の上加茂神社では禰宜が烏に扮して年を占う烏相撲を執行していて八咫烏は熊野の夫須美神の使いでもあり熊野の火祭では烏帽をかぶり八尺の黒衣で烏の嘴をかたどって烏と化した神官が空中に扇で呪文を書きそれは烏文字で護符や熊野誓紙の文字ともなりました
(6)美保神社の青柴垣神事に用いられる神宝である三本足の烏と兎もそれぞれ日神と月神を象徴してます
(7)穏地郡武良郷の中村の御客 祭(荒神祭)は霊山・大峰山の山祭でありここに古式の的射神事が残されていてその的となるのは遠来の神は日神たる「烏」の図像であり武良郷全体の大祭「日月陰陽和合祭(略して日月祭)もまた日神(三本足の烏)と月神(白い兎)を祭りの旗印(御神体)」としてます
(8)三島と云う名前が付く神社は全国に1万社以上ありその総本山は静岡にある三島大社であり延喜式によると三島大社は伊豆国賀茂郡にり伊豆はかなり早い時期から賀茂氏が支配していた場所であって伊豆諸島の神社はほぼ事代主命を祀ってます

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「志登(しと)神社」
福岡県糸島市志登にこんもりとした鎮守の森の中に鎮座されていて韓国を遠く見渡すことができる糸島郡前原に日向峠(ひなたとうげ)があります
大きな山城(やましろ)をまたたく間につくったこの城は筑紫城と呼んだが最初の宮処でもあり後に紀国に遷宮されました

書記では
「筑紫の日向の高千穂のクジフルタケに天降りまさしめき」
とあり「筑紫の~」が重要です

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高句麗系の王は神武天皇で語られてます
降臨神話はニニギノミコトであり
「日向の襲の高千穂峯に天降ります~ソシシの空国(むなくに)を~吾田の長屋の笠狭岬に到ります」
鹿児島に降臨したと記るされてます

二重の降臨場所があると云うことは別の王が侵入したということであり鹿児島に上陸した王朝は「はつくにしらすすめらみこと」と称される応神天皇であって熊襲(くまそ)と云われた軍の王です
魏志倭人伝では狗奴国と書かれていて王の名を「卑弥弓呼」であると記されてます
その人は応神天皇(ホムタワケノミコト)です

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おくりなで「足(タラシ)」「根子(ネコ)」が入る天皇は高句麗直系を意味してます
神武天皇の系譜です

「別(ワケ)」が入る天皇は傍系を意味してます
兄弟継承か片親だけ直系王族です

「神・入」が入る天皇は天孫を意味してます
渡来してそのまますぐに王位に即いたことを顕してます

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日本上陸地点からは3系統の王朝が並立

<第一系統>
「出雲王朝」→「須佐之男命系」→「祖神:ペルシャ(天竺の北)」→「渡来元:西域」
日本上陸「出雲:吉備に本拠(岡山)」→「王祖神:牛頭天王」
八雲紋(氷川神社、出雲神社)・木瓜紋(八坂神社)

<第二系統>
「三輪王朝」→「神武天皇系」→「おくりかな:ネコ」→「祖神:ペルシャ 」→「渡来元:高句麗(西岸)」
日本上陸「筑紫の日向の高千穂のクジフルタケ(筑紫糸島)」→「王祖神:チュモン 」
三足烏紋(熊野神社)

<第三系統>
「九州王朝」→「応神天皇系 」「おくりがな:ワケ」→「祖神:ペルシャインド 」→「渡来元:金官伽耶(任那)」
日本上陸「日向の襲の高千穂峯・ソシシの空国(むなくに)を~吾田の長屋の笠狭岬(鹿児島)」→「王祖神:キムスロ」
亀甲紋(出雲神社・香取神宮・厳島神社)・三つ巴(宇佐神宮)・巴紋(八幡神社)

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「高句麗系王朝と伊勢」

塩土(しおつち)の翁を別名「国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつなさ)」と云い佐田彦大神・猿田彦大神とも云われさらに別名「天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命」とも呼ばてます
さらに史話になると武内宿祢と名を変えてます

日本書紀では
海神豊玉彦(わたつみとよたまびこ)塩土の翁や猿田彦・海神などと名を変え謎めかしてます

伊勢狭長田(さなだ)の五十鈴の川上に鎮まるとして伊勢を中心として紀伊半島に大きな基盤がありこの神名を大綿津見神(おほわたつみのかみ)・賀茂別雷神(かもわけいかづちのみこと)と同一とされていて竜神にも変貌されると云われてます
伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)の二神の間に生まれたとされてます
雷神や道祖の神海神(わたつみ」の神にもあってまた行列を先導する天狗として庶民の尊崇を集めてました

猿田彦大神の別称を探ると次のようになります
(1)佐田彦大神(さたひこのおおかみ)京都伏見稲荷大社
(2)鹽土老翁神(しほつちおぢのかみ)名古屋市天白区塩竈神社(しおがまじんじゃ)
(3)塩椎神(しほつちのかみ)古事記
(4)塩筒老翁神(しおづつのおじのかみ)御釜神社(オカマジンジャ)
(5)事勝国勝長狭神(コトカツクニカツナガサノミコト)
(6)大綿津見神(おほわたつみのかみ)
(7)賀茂別雷神(かもわけいかづちのみこと)

「塩土翁」
伊勢・宮崎・滋賀に多く祀られていて約1500社あると云われてます

その他
塩竃神社(宮城県塩釜市一森山ほか各地)
胡宮神社(滋賀県犬上多賀町)
青島神社(宮崎県宮崎市大字折生迫)
塩津神社(滋賀県伊香郡西浅井町)
益救神社(鹿児島県熊毛郡上屋久町)
胡宮神社(滋賀県犬上郡多賀町)
都萬神社(宮崎県西都市)

塩槌翁がニニギノミコトと卑弥呼を娶せたのは西都市でありました
サルタヒコのここ一番の功績を遺した地です
縁結び今日の仲人役を果たしたと云われてます
このとき和平にあたっていた人物は吉備臣の祖「鴨別(かものわけ)」であり塩槌翁は鴨別とも重なります

高句麗の龍をトーテムとするニギハヤヒ(大国主)の地
金官伽耶国の鳥をトーテムとするニニギミコトが顕れました
ニニギミコトに王座を禅譲したと云われてます

ミケ王朝とワケ王朝が共立和合したのはわずかな期間でニニギミコトは猿田彦(三輪王朝の王)を家来に貶めて三輪王朝の王朝の影響力を排除しながらその正統性を継承をしたかのように擬することで王権の正統性の称揚のようにしたと云われてます

大分県「宇佐神宮」の古文書
宇佐神宮は応神天皇を祀る前の主祭神は猿田彦大神であったと記されていてサルタヒコが伊勢・丹後・播磨および国東で活躍した王であったと云われてます

天狗で現出する猿田彦大神が高麗神社の主祭神でありサルタヒコが高句麗から来た「胡族」であり朝鮮族を率いて渡海した王であると云われてます
胡族の中でも「パルティア王」の末裔であるとも云われてます

サルタヒコは大分に伝わる「秀真伝(ホツマツタエ)」
「我は伊勢の祖サルタヒコである」と記されていて長田佐田彦(ナガタノサタヒコ)は伊勢の祖であるとあり「長田」と云う姓が記されていて長狭(ながさ)と云う名称と似てます

伊勢一宮として三重県鈴鹿市山本町に鎮座する「猿田彦大本宮/椿大神社(つばきおおかみやしろ)」
全国2500社に及ぶ猿田彦大神を祀る神社の総本宮です

この他
伊勢国一宮の都波岐神社・奈加等神社(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)
三重県鈴鹿市

三重県伊勢市宇治浦田伊勢神宮内宮の近くに猿田彦神社があります
サルタヒコが五十鈴川の川上に鎮まったと云われてます
本殿は「さだひこ造り」と呼ばれる特殊な妻入造であり「さだひこ」と云う語は「佐田彦大神(さたひこのおおかみ)」京都伏見稲荷大社の神名と同じです
猿田・佐田・長狭・長田などの関連語の読みが「Xia」であったと云われてます

書記では
武内宿祢の弟が三韓を招きて己にしたがわしめて王の座に就こうとしているとに讒言されて応神天皇は謀反の罪で武内宿祢を殺さしむと記されていて武内宿祢が嘆いていると壱技直の祖真根子(いきのあたいのおやまねこ)が「大臣のきよき心を明かしてください ここはお逃げになって帝に罪なきことを明かしなさい」と身代わりとなって自害されたと云われてます

武内宿祢は筑紫から船にのり紀伊に向かうために九州を南端を迂回して黒潮に乗る海路であり筑紫から紀伊水門(きのくにのみなと)=熊野に停泊して大和入りするときの航路であってかつての大和攻めのとき武内宿祢の男軍を率いたと同じ経路でありこれを「南海道」と云います

紀伊の港から大和入りし弟の甘味内宿祢(うましうちのすくね)とともに応神天皇に捕えられましたが対立して武内宿祢が勝ち応神天皇の勅により紀直(きのあたい)に身柄を預けたと云われてます
応神天皇は命は許したもの紀州に蟄居させたとされ五十鈴川の川上の今の伊勢神宮がある地が武内宿祢が鎮まった地であると云われてます
武内宿祢=猿田彦=天照御魂が没した地に天照大御神と豊受大神が元伊勢から伊勢に遷宮もされてます

サルタヒコが紀記の記述にある天尊したニニギを先導したと云う従者よりもずっと大きな存在であったと云われてます

「元伊勢籠(この)神社」
丹後一宮であり御祭神が豊受大神です
奥宮として「真名井神社」があり最奥にある「鹽土老翁の磐座(いわくら)」を「大綿津見神」とも記されてます

「真名井神社」
「丹後国の比治の真奈井から御饌都神である等由気(豊受)大神を伊勢国の度会に移し祭ったのにはじまる」とあります
イザナミノミコトは紀伊国熊野の有馬村の斎祀られたとあり伊勢には因縁があると云われてます

サルタヒコが終末に鎮座したのが伊勢であり亡くなれてから遷宮されたとも云われてます

斎王(いはいのみや)の始まり「垂仁天皇紀」
「斎宮 五十鈴川の川上に興つ 是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記してあり斎王の忌み籠る宮であり後の「斎宮御所伊勢神宮」です
斎宮は「伊勢神宮」より古いです
「斎」とは接頭語で「神聖な」と云う意味です
「斎王」は「神聖な王」と云う意味になり神前にそなえる「サカキ」は「齋木(ゆき)」と云います
「斎」は 「yi」と発音され伊勢も「yise」で聖なる支配者と云う意味に転じます
「禊」清めるその奥の力は龍神・蛇神でありサルタヒコが殷・夏の祭祀性の強い王朝であったことが伝わってきます

「斎王(神巫女)」
天皇が即位すると「卜定(ぼくじょう:亀の甲羅や動物の骨などを使った占)」によって未婚の内親王(天皇の皇女)から選ばれて天皇の代わりに伊勢神宮に仕えました
斎王は天皇が譲位したり崩御したりするとその任が解かれ都に戻ることができますがそれまでは一般の社会とは隔絶されます
「斎王群行」「斎宮行列」と云われる行事は天皇が御代りになる度に皇女を京から斎宮に送る行事です

672年「大海人皇子」は壬申の乱での戦勝を願って朝明郡(あさけのこおり)の迹太川(とほがわ)ほとりで伊勢の方を向いて宮を拝んだと云われてます
見事大願成就して天武天皇になるとこれまで途絶えていた斎王の制度を復活させたと云われてます
天武天皇は高句麗王の末裔だったと云われてます

大海人皇子と大田皇女(天智天皇の皇女)との子「大津皇子」の実の姉でもある「大来(大伯:おおく) 皇女」とは伝承による斎王には垂仁天皇の時代の倭姫命(やまとひめのみこと)らがいましたが大来皇女は最古(初代)の斎王(神巫女)となってます

斎王(神巫女)の仕事は伊勢神宮の祭りに参加することで正月の神宮遙拝や三節祭(さんせつさい)とよばれる6月・12月の月次祭(つきなみのまつり)と9月の神嘗祭(かんなめのまつり)への奉仕が主です
斎王になる皇女は交代するまで処女でなければならないが不倫した斎王(神巫女)もいて処女を失うと斎王を解任され京に帰されました
その御一人に推古天皇の皇女「莵道貝蛸皇女(うじのかいたのひめひこ)」がおられます
斎宮ではその天皇が神意に適うかどうか神のお告げを卜占していてスメラミコトは伊勢の神が最高位で天皇は伊勢の神に承認されて王位につけると云う構図でした

「琉球王朝」では
宮中にあるノロ(巫女)の200人の頂点である「聞得大君(チフジンガナシ)」が最高の地位にありました
守護神「オナリ神」に直結するためであり王たりと云えども神の威光の下におかれると云われてました
聖王であるニギハヤヒを塩土翁に変名してあたかもニニギの臣下にされたと云われてます

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邪馬壹国の女王「卑弥呼」がこの世を去ったのは西暦240年ないし248年の間だと云われてます
百済第八代「王古爾(こい)王」が日本に千日文を送ったり秦一族が来日したAD284頃より少し前であります
卑弥呼は墨子を心得いて中国「鬼道 (初期の道教)」を実践されていたと云われてます
文字は殷で卜占で使われた文字であり漢字の元となる文字です

魔除けの神具とされたもの
鏡・櫛(くし)・剣・桃の実・髪飾り・鈴・朱=丹粉
鈴などは現在のユダヤ教の魔除けと似ています
卑弥呼は鏡をとりわけ好んだと云われてます

息長帯比売=オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后(じんぐうこうごう)=仲哀天皇の后=卑弥呼(pieg-miə̌-hag ビミファ)

仲哀天皇は長門の豊浦宮の筑紫の香椎(かしいの)宮にあって世を治めました
仲哀天皇は大和を離れて遠く筑紫に宮を置かれ神功皇后・卑弥呼もまた筑紫にいました
近江町はかつて息長邑と呼ばれていて古くはすべて母系で受け継がれていました

仲哀天皇は
「わたしはこれから熊襲(くまそ)を撃とうと思う オキナガタラシヒメよ これからわたしが琴を弾いて神を招きよせる いまより神がかりして託宣せよ」
と述べられました
オキナガタラシヒメは神がかって住吉大社の三神が憑いて神の言葉を語りだしたと云われてます
このとき審神者(さにわ)として立ち会っていたのは中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)です

琴を弾いて神を降ろす「弾琴巫術(だんきんふじゅつ)」とは古来日本で始まったのではなく古代中国から渡来しました
この神降ろしの巫術の源流は紀元前4000年のメソポタミアではすでにあり卑弥呼は日女神といわれるシャーマンであって降りる活霊は「住吉の三柱」の神と云われてます

オキナガタラシヒメは神がかりして託宣をする巫女(みこ)でもあり卑弥呼の「卑」を僭称とすれば弥呼(みこ)は巫女(みこ)に等しくなります
仲哀天皇が崩御されると斎宮(いはいのみや)を造り自ら神主になったと云われてます
卑弥呼が託宣を修する巫女であったと云われてます

神宮皇后=オキナガタラシヒメ

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インドには古代広汎な蛇神崇拝がありその神名は「ナーガ(Naga)」であり男性「ナーギィ」は女性の蛇で龍神と云われご神体はコブラです
古代日本では「ナガ・ナギ・ナダ・ニギ」へとなまってます

オキナガタラシヒメノミコトの御名にはインドの神名「ナーガ」が含まれていて「オキ・ナガ・タラシ」
異腹の兄弟の弟「忍熊皇子(おしくまのみこ)」であるナガスネヒコは「ナガ・スネ」でともに「ナガ」が入ってます
ナーガとはインドの蛇神名です

蛇身人首の蛇女神は中国では女媧
古代エジプトではイシス神
古代メソポタミアではウヌグ・キ神
古代ミノアにも存在しました

「へび」
和製インド語
南インドでは「Pavu・Pabi」
パヴ・パビとは沖縄では「ファミ・ファプ」になり「ハミ・ハプ」になりました
与論島では「パブ」です

「カカ」「ハハ」「ヌカ」
日本古語で常陸風土記に登場する「羽」は「ヌカヒコ」
夜ごと通って一子を儲けます小さなヘビです

奄美の伝承にあるマッタプ(赤又蛇 )とは美男子に化けて人間の娘を孕ませました
この「プ」は「ハプ(首里方言)」の「プ」です

大蛇は「羽羽」とは
奄美では水神(竜神)は「ミヌマ」です

大蛇「羽羽」とは
日本古代では「パパ」と発音されていました
中古代では「ファファ」に変化してます

ニギハヤヒには「ナーギィ」が変化した「ニギ」が隠れてます
ニギはインドの「ナーギ(へび)」の音からきてます

日本の初期大和王朝は龍族であり古代日本は龍崇拝国でこれは中国が「ロンの国」と云われているのと共通してます

龍神は夏王朝のトーテムであり蛇と同一です
夏王朝を開いたのは禹帝であり現在の河南省洛陽一体に宮所がありました

卑弥呼が「ビミファ」と発音された云われている「ビミ」「ベミ」とは古代朝鮮語で「日」「光」でありそして「蛇」の意味があります
「ミファ」とは神と云う意味であり卑弥呼は「日神」または「蛇神」と云う意味になります
朝鮮語と中国語の「ピジン語」です

倭王「トヨ」も蛇姫の意味を持ちます
「トヨ」の別名の神名「ウカノミタマはウカ」がマレー語の蛇の意味をもつ「ウラ」であると云われてます
「ウラ」が「ウカ」に転じて「トヨ」もまた巫女であり神懸かりしてヒミコと同じタイプの蛇女神であると云われてます
「ウカノミタマ」は「倉稲魂」と書き稲荷神社の御祭神であり伊勢の皇大神社の豊受大神に比定されます

「住吉大社の三神」
福岡県博多区住吉延喜式神名帳にある古社で御祭神は「底筒男神・中筒男神・表筒男神」の三海蛇神です
「ツツ」は雷神=水蛇の古音であり神宮皇后の韓派兵のときに出現したとある神です

表筒男(うわつつのお)
中筒男(なかつつのお)
底筒男(そこつつのお)
海蛇神です

この三神ははじめ安曇族によって奉斎されていました
筒男(つつのお)は阿曇族が祭祀していたときの初期の名で綿津見は天尊属が海上安全の守護神として奉斎してから後に付けられた神名であります

「表筒男・中筒男・底筒男」
上津綿津・・中津綿津見・底津綿津見と全く同一神格です
目の縁に入墨をしていたのが「阿曇目(あずみめ)」と呼ばれていました

出雲「佐田神社(さだじんじゃ)」は龍陀は「セグロウウミヘビ」です
出雲の古社「杵築神社(さつき)」「日御碕神社」「美保神社」などすべて海蛇を神として「竜蛇さま」と呼んでます

「うわつつのお」
「うわ・つつ・のお」が正しい音節であり「のお」は「之男(のお)」に等しく須佐之男(すさ・のお)の「のお」がそれにあたります
建御雷之男(たてみか・づちのお)の「づち」は「つつ」と同義であり「つつのお」は「都知(つち)」に等しく意味は「都」は「の」と同じで「知」は男の尊称です

「神奈備 (かんなび)」の 「かん」は神です
「なび」はインドのナーギ(蛇)の音からきています
「かんなび」の意味とは神蛇となります
「うなぎ」の古語は「むなぎ」と云い「なぎ」はインドのナーギ(蛇)の音なります
「あなご」の「なご」も海蛇を意味してます

出雲で信仰の対象になった特別の山を「神奈備山(かんなびやま)」と云いますが出雲風土記には「茶臼山」「朝日山」「大船山」「仏経山」の四つの山の名前が記されてます

「中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)」
近江「比売=オキナガタラシヒメ=卑弥呼」に仕える隼人の久米部の軍事的首長であり新羅征討に従軍し大功あって後に「雷命(いかつちのみこと)」として祀られたと云われてます
雷命神社・対馬下県巌原阿連にも中臣の文字があり藤原の祖であるとも云われてます
対馬・壱岐の卜部が藤原鎌足の出自だと云われてます

雷神(いかづち)は水神系の蛇神(龍神・雷神)であり「ミホト」を焼いて「カグツチ」産んだあと神去りイザナミが黄泉で八の雷神(やくさのいかづち)におおわれている醜い姿をイザナギが見てしまい「ミホト」を焼いて産んだ「カグツチ」の首を斬ったときに飛び散った血から生まれた八柱の神々も蛇神です

「対馬神社史」
八龍大明神 神躰無之 榧(かや)の木を祭来る也

鹿島神宮・春日大社のタケミカヅチノミコトとは雷神です

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仲哀天皇の死後は武内宿禰が琴を弾き中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)が審神者「ト部(うらべ)」となるこの弾琴巫術の3人はみな蛇の刻印があります

石上神宮の大本の神は武内宿禰(サルタヒコ=天狗)と云われてます
サルタヒコは容貌魁偉で「鼻長七咫(ななあた)身長七尺(ななさか)余り 当(まさ)に七尋(ななひろ)といふべし」とされる天狗です

口尻(くちわ き)明(あか)り耀(かがやけ)れり 目は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして 絶然(てりかがやくこと)赤酸醤(アカカガチ)に似たり

「カガチ」とは
恐ろしい赤い蛇のことであり「アカカガチ」とは「ほおずき」の意味です
大蛇の目を連想させサルタヒコとは「アメノヤチマタ」に居たと書紀に記されてます

「アメノ」
天狗=武内宿禰も「ヤチマタ」と呼ばれ武内宿祢=サルタヒコから龍神・雷神であり猿とは無関係です

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「春日大社」
第一殿「武甕槌命(タケミカヅチノカミ)」は鹿島神宮から招き寄せられました
第二殿「経津主神(フツヌシノカミ)」」は霊剣の神格であり香取神宮と共通していて物部氏の奉じた神宝剣です
第三殿「牧岡神/天児屋根命(アメノコヤネノミコト)」はタケミカヅチノカミの神話上で比定される神格です

サルタヒコ=武内宿禰に比定されその妻「天宇受売命(アメノウズメノミコト)」
第三殿「牧岡神/天児屋根命」の妻「天美津玉照比売命(あまみつたまてるひめのみこと)」それと同一神格が「天宇受売命(アメノウズメノミコト)」です
タケミカヅチノカミ=武内宿禰

「カヅチ」が蛇ノ古語であり「タケ・ミ・カヅチ」
「カズチ=蛇」の古語が隠れてます

藤原一族が支えた大本の神「武甕槌命(タケミカズチノミコト)」であると云われ中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)に比定されます
武内宿禰とともに雷神です

第四殿「比売神(ヒメガミ)」
宇佐八幡神宮第二殿御祭神「比売大神」で卑弥呼です

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仲哀天皇が崩じた四ヶ月あと中臣鳥賊津使主(なかとみのいかつおみ)が審神者(さにわ)をして武内宿禰(たけうちすくね)が琴を弾きました
卑弥呼は仲哀天皇を指導していた神は誰ぞと七日七夜待ちつづけて答えを得たと云われます

伊勢「度会(わたらい)」氏が祀る五十鈴宮の神です
尾田の吾田節の淡郡 (あわじ)に居る神です
厳事代主命(いつのことしろぬし)であったと云われてます

「住吉の三柱の神」とは
事代主(ことしろぬし)=ウマシマジは素戔嗚の孫サルタヒコの子で後継者であり国譲りをあっさりと承諾した最後の大神王朝の男王でありニギハヤヒの子です
この人物は「蛭子」であり「西宮神社(にしのみや)」で祀られる恵比寿様です

「大国主(ニギハヤヒ)が いまは政治はすべて息子の事代主命にまかせている わたしの一存では決めかねるので 事代主命に相談してみるがよい」
と云いタケミカヅチの交渉の矛先は事代主命に向かいました

美保の岬(島根県美保ケ崎の美保神社)で魚釣りをしていた事代主命は
「この国土は天津神の子に奉げることにしよう」
と云ってさっさと引退してその後は大好きな漁を楽しんで暮らしたと云われてます

事代主神は先を見抜き話の分かる神とされていて記紀では国譲りを容易にした功労者です
邇芸速日命の子宇摩志麻治命(うましまじ)
宇摩志麻治命=事代主命

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「やまと」は
3世紀に「夜麻登」と表記されてます
4世紀には「山跡」と記されてます

「夜麻登」
「山跡」
「邪馬台」
「大和」
すべて同じ音です

百済を「クダラ」と読むのは古代朝鮮語読みです

「や」は韓国語で「川」
「ま」は韓国語「山」
「と」は韓国語「場所」
邪馬台を慶尚道古方言で読むと「やまと」となります
新羅方言では「やまたい」は「やまと」と読まれていました

「ヤマト」の表記は
「倭」「倭文」「大倭」「大和」「和」「和徳」「和戸」「大養徳」「家満登」「夜麻登」「屋麻戸」「山跡」「山人」「山入」「山和」「山 外」「山戸」「山登」「山砥」「山遠」「山都」「養徳」「山門」「矢的」「邪馬台」「東」「日本」
など27もあります

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「三角縁神獣鏡」
「(倭国の地勢は東高くして西下り 邪靡堆(やまと)に都す すなわち魏志のいわゆる邪馬壹の者なり」

隋の頃には倭国を大和と同一と看做(みな)してます
「やまと」とはもともと地名であって「大和=倭」でした

「魏志倭人伝」
魏の使者・長政の長期滞在をもとに書かれていて卑弥呼が「鏡」を欲しがったと云われてます

奈良「黒塚古墳」から33枚の「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」の墳墓からの出土がありました
三角縁神獣鏡は邪氣を払うために死者とともに埋葬されました

「鏡」は卑弥呼の蛇信仰にとって蛇の目が転じた照り輝く呪物(じゅぶつ)でした
卑弥呼の「鏡」は太陽ではなくそれは「蛇の目」の象徴であったと云われてます
三角縁神獣鏡の装飾では龍の鱗形(うろこである三角紋)が周囲に二重に施されていてこれはヘビ神の子宮をデフォルメした特殊なデザインです
前方後円墳のバチ型は子宮であり死して母胎に帰ると云う神仙思想から墳墓全体が子宮を模っていると云われてます

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「前方後円墳」
前方前方後円の形は女性の子宮を模したもので母の胎内から生まれ死ぬとまた帰ってゆくと云う「母体回帰」の思想が元になってます

人の一生の時宜を東西南北に四聖獣を配し四季をを巡ったのち死ぬと再び子宮に戻ると云われ沖縄には「亀甲墓(かめこうばか)」があり古来からの墓の形は亀の甲羅に似ていることから名づけられましたが子宮をかたどったものであります
あたかも「胎蔵界」です
子宮をかたどった墳墓は沖縄だけでなく台湾・香港・中国本土では福建省など中国南部に多くありそのルーツは倭人の渡来ルーツと同じです

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八咫烏(ヤタガラズ)と云われているその数は70名前後存在します
裏神道秘密組織
漢波羅秘密組織

八咫烏の方は生まれながらに「神道儀式全般」「陰陽道」「迦波羅」を徹底的に仕込まれ天照大御神=イエス・キリストを絶対神として奉り迦波羅の最高奥儀「生命の樹」を基本とする原始キリスト教を云い京都「下鴨神社」が本拠地だと云われてます

「漢波羅秘密組織」
ユダヤ教神秘主義「カッバーラ(迦波羅)」を駆使し創始者は聖徳太子だと云われ漢波羅とは迦波羅(カバラ)の達人であり陰陽師です

八咫烏と云われる中枢は12名おり「十二烏」と呼ばれてます
イエスの12弟子の数でありその上に「大烏」と呼ばれる人がいると云われてます
大烏は3人存在していて「金鵄(きんし)」と呼ばれ「裏天皇」としての役割を担っているとも云われてます
金鵄とは「金鵄勲章」の金鵄であり神武天皇の弓の上に止まった鳥のことを顕してます
イエスの弟子の「ペテロ・ヤコブ・ヨハネ」の三人を顕してます

八咫烏(ヤタガラズ)の祖とはイスラエル12支族の祭祀を司るレビ族「賀茂氏」であり賀茂役君小角と云われ陰陽道の祖であり安倍清明も賀茂氏です

伊勢三宮として伊雑宮の封印が説かれて収めるべき3種の神器が揃うとき地上に天照大御神が降臨すると云われてます
3種の神器とは呪いの神器とも云われ正当な血筋の資格がない者がふれると死に至ると云われてます
そして本物は来るべき日まで隠されていると云われてます


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